8月の暑い日、久々に大きな本屋に行って3冊の本を買った。
本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む
なぜ働いていると本が読めなくなるのか
きょう、ゴリラをうえたよ
どうだろう。購入履歴がまさに「本を読みたいけど育児が忙しくて最近読めてない、でも本を読むという喜びをもう一度味わいたいと思ってるワーママのそれ」でちょっと笑っちゃった。まあそうなんですけど。
その中の一冊、本を読んだことがない32歳がはじめて本を読む
を読んで自分の原体験に思いをはせたことについて書いていこうと思う。
※なぜ働いていると本が読めなくなるのか、の感想の記事はこちら
きょう、ゴリラをうえたよ に関しても書きたいのでそちらはまた後日
どういう本なのか
この本について簡単に説明しておきます。本を読んだことがない(国語の教科書でしか文学に触れたことがない)webライターのみくのしん氏が、友達に助けてもらいながら(具体的には、分からないところを補足したりその場で吐き出した感想に対して何か言ってもらったり)本を読む、という内容の本。読んでいる間に話したことや起きたことをレポートしながら読了するのを見守る、というweb記事があり、それに加筆修正し書下ろしも含めて収められてる本です。web記事でも最初の走れメロスの回は読んでいて、とても良い記事なんだけどいかんせん長いので他のシリーズをあまり読めていなかった。
この度書籍化したとのことで、応援の気持ちを込めて購入してみました。
本を読めない、とは何か
本を読めない、ということに関して。読まないにも人それぞれ理由があると思うんだけど、記事から察するにもしかしたらみくのしんさんは「文字が読めない特質」をお持ちの方なのかなと思いました。
うちの家族にもいるんだけど、たぶん脳の気質的に本を読むのが苦手な人はいる。
本人具体的に聞いたところ、
- 文字を読むことはできるんだけど目が滑って内容が頭に入ってこない
- 集中できなくて次の行に行くときにどこに目を向ければいいかわからない
- 何度も同じところをいきつ戻りつするので全然読み進められないしすぐ疲れちゃう。
こんな感じらしい。
もしかしたらADHDの特質があるとか識字障害とか、そういう要素が含まれている可能性はあるけど今回はそこは本質でないのでまたの機会にいたします。
うちの家族に関しては今ではある程度克服して結構読めているみたいです。読めるようになったきっかけや方法を簡単に記すと
①英語の本を読み始めた→英語は得意で、日本語を読むのとまた違った動作になるので本を読むとき特有のストレスが少なかった
②読みたいというモチベーションが高い本だけを読む→子供のころ、苦手なのに無理やり読めと言われた経験が強く残っており、ネガティブな思いがあった。押し付けられるのではなく自分で選んだ本は読みやすいことに気が付いたそう
③声に出して読む→前述の、どの個所に目線をもっていけばよいかわからない、内容が頭に入ってこない、という問題がこれで軽減する
というようなことらしい。
みくのしんさんも頭の中だけで読んでいる何が起こっているのか分からなくなるからまず声に出して読んでみる、というころから始めている。
読むというストレスを、方法を工夫することで障壁を取り除いて解決してるし「あ、そういうやり方でもいいんだ」と気づかせてくれる話だ。
別に本を読むのに守らなきゃいけない作法とか手順とか方法とかないのにね。
いつの間にかなんか自分に課していた縛りみたいなのがあるのかもしれないなと改めて思った。
例えば私は、「今から本を読む」「今日は本を読む」と決めてかかりたい、という思いがあって、でもそういう時に限って別の予定が入ったりなんか眠くなって昼寝しちゃったり。別にそれはそれでいいんだけど「決めてたのに読めなかった」「なんか読めなくなったな最近…」というネガティブな気持ちのほうが勝ってしまい、次に読もうと決めた時もどうせ読めないような気がする→読もう!と決めることをやめて読まない。
という謎の悪循環に陥っていた。
でも、本当に面白い本に出合って夢中で読むときって、自分が意識しようとしまいといつの間にか手に取っているし、時間を意識せず読んじゃうし、もはや「読書してる」とも思ってない。電車に乗ってる間とか、家事の合間とか、寝る前の寝落ちするまでの時間とか。なんとか時間を作ろうとする。
別に「読書時間」と「それ以外の時間」を分ける必要もないし、読みたい本がその辺に転がっていて気が向いたらなんとなく手に取っている、ぐらいのほうが本が読めるなあ、と最近気が付いてから少し気が楽になった。
楽に読めるやり方というのはそれぞれにあるが、こだわりを捨てたり固定観念を捨てたりすることが秘訣なのかもしれない。
本が読むということをマウントや自己肯定感をあげるために利用していた
私は小さい頃から本が好きで、どうやら平均よりも読むのも早いらしい、とは感じている。
誰に何を言われなくても本を読んでたし、それが当たり前だった。SNSやスマホどころか携帯もない時代、自分が何をどれだけ本を読んでいるかを発信する機会はなかった。それでも自発的に読んでいた。読む理由があったから。
今は、本を読み終わったときに自分の手帳にメモし、同時に「ブクログ」にも登録している。
どれだけ自分が本を読んだか定量的に視覚で把握できるようになるとまず「冊数」を気にするようになる。あとは他人に公開することで「自分はこういう本を読んでいる人です」っていうのを提示したくなる。そうなると何が起こるか。
まず、時間がかかる上にあまり得るものがない(と私が思うもの)は犬猿しがちになる。あと「これは読書とは言えないんじゃないか」と思われる本も手に取らなくなる。
一体何に縛られているのか。別に私が何を読んでいようと笑ったり蔑む人もいないのにね。
というか、2024年9月現在、ブクログとSNSの連携のさせ方も変わってきてもう面倒でやってないしブクログでつながっているリアル友達もいないので別にだれも見ていない。もはや自己満足と自分の記録以外の目的はない。もう何を気にして何と戦ってるのかもわからない。
冊数とかジャンルとかこだわる必要ってないよね本当は
もちろんたくさん読んだほうがいろんな知見を得られたり人と本の感想を共有できる機会も増える。ライトな本より骨太な本のほうが得られる知識も増える。
そんなわけでなんか最近「〇冊読んだ」という冊数を稼ぐことが目的になっていたり単純に読みたい本とまた別の動機で本を選んだり(賢そうに見られたいとか)している。
それも読書の副産物ではあるけど、やっぱり本を読む喜びや楽しさ、そういうものが根源になければ続けられない。それがあるからまた私は新たな本を手に取るのだ。
何冊かに一回、時間を忘れ疲れも感じず何時間も読み続けられる、「リーダーズハイ」みたいな状態に陥る。今中断するなんてありえない。ああ、もうすぐ読み終わってしまう、終わりたくない。でも続きが気になるから止められない。
毎回ではないし読んでみないとそういう本かどうかはわからない。でも、その状態になる本に出会えることが本を読むことの喜びであり醍醐味である。そういう本にぶち当たるために今後もいろんな本を読んでいきたい。
苦手だ、と気づいてから遠ざけていたけど、もう一度読みたい本があった
私は岩手県出身なのであるが、実は岩手といえばこの人、と言っても過言ではない有名作家
がいる。
宮沢賢治
実は私は宮沢賢治の作品が苦手だった。
名作なのはわかる。多くの人に愛されるのもわかる。でもなんか、なじめない。多分独特のオノマトペとか情景描写とかが多くてイメージが湧かなくて、本の中に入っていける感じがしない。
地元は宮沢賢治をやたらと推している。あちこちに賢治にちなんだモニュメントがあるしかつては「けんじワールド」というプールが併設されてる宿泊施設もあった。
※けんじワールドを調べたらずいぶん前に閉業していた。一回ご飯食べにだけいったことがあるがプールとおいしいご飯が食べられる食堂とホテルがある。ほぼホテル三日月である。なにが賢治なのかはいまだにわからない。誰に聞いてもわからないという。これに関しても別途調査したいと思う。
とにかく賢治は県民の誇りであり、実際ほんとに愛されてもいる。それは誇らしいことである。
それはそれとして銀河鉄道の夜や風の又三郎になじめないことをコンプレックスに思っていた。
みくのしんさんの本を読むシリーズで、宮沢賢治の童話「オツベルと象」を読む回がある。
すごかった。私と同じように「この表現何??」と思いながらも自分の中で解釈したり、不条理に思える展開を前に叫んだり、なんで?なんでそうなるの?わからない。でもこうかな?
さまざま思考をめぐらせかまどさんにツッコミを入れられながら七転八倒しながらなんとか読了していた。
意外なことに、私が宮沢賢治を読んだときに頭の中で考えていることと似ていた。
いままで触れたことのない表現、文字だけでイメージできないものを何とか頭の中に画を思い浮かべ、童話というから子供向けのほんわかした話かと思いきやシビアでシュールな話やんか!とツッコミを入れ。
ああ、これでいいんだ。理解できないことがあってもいいし共感できないことがあってもいい。全部は好きになれなくてもこの表現だけはいいかもな、という箇所がある。
それでも「読めた」って言っていいんだ。
読書って自由でよかったんだ。
もう一度、宮沢賢治に触れてみたい。かつて「県民だから宮沢賢治に触れなくちゃ」という義務感で読んで、好きなふりをして、でもよく考えたら苦手だわ、と自覚した。
あれが苦手だと言えるようになって「大人になってよかったわ」と思っていた。
でも、大好きになれなくてもいいからもう一度読もう。そう思って「オツベルと象」が入った童話集を買った。
「やまなし」という話も入っていて、そういえばこの話だけは大好きだったことを思い出した。
短い童話だし川の中でカニの親子がおしゃべりしているだけの話だ。教科書に載っていたので何度も読んだ。
多くを語らない童話であるが、弱い存在だからこその美しさ、奇跡のような絶妙なバランスの上で成り立つ儚いけど幸福な日々。流れる季節。流れる川の水。
久々に読んで涙した。忘れていたけどやまやしは私にとっては大事なお話で、ずっと心のどこかにあったんだ。
相変わらずやまなし以外の話はまだ読めてないけど、焦らずちょっとづつ読みたいと思います。
何歳からだって始めればいい
本を読むことを始める、にしては32歳は早くない。でも、年齢を理由に恥ずかしいと思う必要って全くないし、今からその道のプロになるというわけでなければゆるく始めたっていいし、得意な人に教えてもらいながらでもいい。やってみてやっぱり無理だったらそこでやめてもいいしね。
みくのしんさんみたいに、始めてみたことで、自分がそれまで到達できなかった心の震えとか、体験を手にすることって本当に楽しそう。そうなると誰かの(いもしない誰かの)目線を気にするってホントもったいないよな、と思いました。
よく考えたら私ももう40代だけど、今までなんとなく苦手だったけど始めてみたいことがあるかもしれないな。今から始めるからこそ子供のころだったら味わえなかった感覚や感動を手にすることができるかもしれない。
このブログで自分自身の「はじめて」を発信できたらそれはそれで楽しいことのなので、何かみつかったら挑戦してみようと思います。
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